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2011年3月31日 (木)

2月 忘備録

せめれブログに履歴を残さねば、、、忘れやすい体質ですので。
もっとタイムリーにすればいいのに。

毎年2月3月はシミュレーションのスケジュールが色々と入って忙しい。
今年も同じく。

2月末にはセントルイスから大学の友人がきてHIVカンファレンスに出ていた。分野違うものの頑張っている人からの刺激はとてもいいもの。

3月初めには救急教育の学会へ出席。
あたらしくプログラムを始めるファカルティへのコースへ出席。
今までのコースの中でもかなり秀逸。日本でもいつかこのようなものやりたい。

2011年3月29日 (火)

「往診」 レポート5

津波の被害が10m近くせまる高台にある地域のお寺に非難しているみなさんの健康状態を確かめるために往診にうかがった。立派なお寺ではあるがやはり多くの方々が非難しているとスペースは限られていた。ライフラインが断たれた中、蝋燭の火を灯して生活をされおりご苦労がうかがい知れた。高齢の方々の慢性期の薬の不足、津波の被害にあって水の中を歩いて避難して足を損傷、地域のリーダーの方が多忙によって血圧があがりお休みになられているなど様々な問題があった。地域の住民の中には看護師の方々がいらっしゃり、ご自身も被災している中コミュニティの健康状態の把握につとめられいた。

中学校の避難所と同様、水道なし、ガスなし、電気なし、携帯つながらず、インターネットなしのないものづくしの中、みなさんコミュニティをつくり励まし合っていらっしゃった。子供から大人までそれぞれかかりを作り助けあう姿が印象的であった。

往診ではマサチューセッツ総合病院救急部スタッフのスチュアートハリス医師とボストンカレッジのPhDコースの原田看護師(NPナースプラクティショナー終了)のチームにお世話になった。原田看護師が診察し、英語でハリス医師にプレゼンテーションし私もそれを傍聴した。ハリス医師は日本語のヒアリングはかなりのレベル(二年間JETプログラムにて岩泉町に滞在)で我々のチームの診療は互いに協力しあいスムーズなものであった。

 お寺にも自衛隊が物品を届けてくださっていた。今回の災害における自衛隊の計り知れない貢献に改めて感謝した。第二次大戦の影響からか我が国では貢献のわりに感謝の度合いがすくない感があるが、もっと評価されてしかるべきとあらためて感じた。お寺の避難所だけでなく、小さな避難所まで赤十字からの物品はしっかりとどいておりその派手さはないが地道な貢献に頭が下がった。

2011年3月28日 (月)

「避難所の仮設クリニックでの診療」 レポート4

1200人の避難所に医療チームが到着し、巡回を始めたという事実に対する人々の反応はとてもポジティブなものであった。同行した徳洲会新聞のカメラマンの河合さんも写真をとりながら避難所の方々の表情が見違えて変わることに気がついたとのことである。

我々が実際に提供できた診療は、限られた薬剤・医療資源による最低限のものであったがギリギリの精神的、肉体的状態にあった 避難所の方々にとってとても大きな精神的な安堵感をもたらしたとのことを診察の合間に伺った。また、救護スタッフや避難所本部の方々にとってもほぼ不眠不休で対応してきた中、医療スタッフがはいることで、精神的なゆとりがうまれたとのことである。もちろん、72時間以内に介入して避けうる外傷による死亡を防ぐことの重要性に代わりはない。しかし、災害における医療活動はそこにとどまらず被災地が元の機能に復帰するまで続くということを改めて感じた。

診療の内容は、診療開始当初は感冒、便秘、頭痛、不眠、裂傷や打撲、が主なものであった。1日あたり大体100名程度が受診された。みなさん、ご家族やご住居など色々な痛手をうけていらっしゃるにもかかわらず気丈にされていた。安易なことばはかけられず、お大事にと笑顔で薬をお渡しすることが精一杯であった。

TMAT20年弱の経験があるため、災害時の薬品セット等はあらかじめととのっていた感冒薬などは必要性が予測されており多量のストックがあった。診療が軌道にのりはじめると縫合セットや喘息の吸入薬、そして各種内服薬などが必要となり毎日本部に向けて要請をしていた。前述したが、災害現場において独自の物資補給能力があることは極めて重要であり、TMATの効果的なシステムに改めて強い印象をうけた。

診療が数日目になると、傷のフォローであったり、喘息のフォローであったりフォローする患者が増えてきた。慢性疾患の患者の薬をどのように開業医の先生方や市立病院と連携していくかも課題であった。また医師も2-3日単位で徐々に入れ替わっていくため診療がスムーズにいくように、医師サイド、看護サイド、Logisticsサイドでの引き継ぎのためのマニュアル化が始まった。この過程で災害後に地域のためにで奮闘されていてる開業医の先生方、非常にこんなんな状況の中日々力強い機能回復をみせる気仙沼市立病院、などの日々刻々と変わる情報をアップデートすることになった。

毎朝8時に気仙沼市民病院にて東京医師会主導のもと各支援団体が参集し、支援すべき場所と支援チームの決定、気仙沼地域の補給状況、市民病院の復旧状況を共有することが毎日行われていた。対策本部、救護、補給、医療班など複数の分野の団体があつまり各部門の報告と一日の方針や中期的な方針の検討を行っていた。

診療所開設後4日目には朝一番に顔色のわるい男性が胸痛で来院、災害のため心電図もない仮設診療所のため静脈確保し前述の市民病院のミーティング参加予定の長谷川先生に搬送をお願いした。市民病院での心電図では急性心筋梗塞との診断でその後、堅調に機能回復されていた市民病院では循環器科の先生のもと迅速に緊急冠動脈形成術が施行された。

1000人を超える方々のいた避難所のため発熱や嘔吐にたいしてどのように対応するかも対策が必要となりTMAT本部・避難所対策本部・救護担当のみなさまと協議してインフルエンザ疑いの場合の対応、井戸水を使った手洗いによるノロウイルス予防などを検討した。亜急性期の感染対策については、承知していたつもりであったが、いざ各部門と検討して方針を決めるとなるとその重みを改めて実感した。

2011年3月27日 (日)

間違いもありますが、、、震災関連の記事

http://news.harvard.edu/gazette/story/2011/03/at-ground-zero-in-coastal-japan/

2011年3月24日 (木)

「組織化された災害チームの必要性」 レポート3

被災地に着の身着のままで善意で赴くボランティアが、被災者のための食料や物資を消費してしまうという問題はよく知られている。災害チームの組織化は有効な活動には不可欠である。TMAT20年近い海外を含めた経験がありICS(インシデントコマンドシステム)に基づいた有機的な組織ができあがっていた。

コマンド-東京本部・仙台徳州会病院本部

プランニングー田川医師・本部

オペレーションー大船渡、気仙沼階上、気仙沼本吉、南三陸の4っつの現地部隊

ロジスティクス-野口管理栄養士をトップに緊急車両25台を有機的に利用

ファイナンスー東京本部より統括

前述した通り災害時には必要な物品を自給自足できること、被災者のためのリソースを援助チームが使わないことが肝要であり、これらのために有機的かつ機動的な組織が必要である。TMATはまさに全ての部門が歴戦の猛者であり、衛星携帯電話を使いものすごいスピードで効果的に情報交換がなされリーダーの指示のもと組織が迅速に行動した。

特に日本のみならず海外での災害支援にも参加されている野口管理栄養士は

-リーダーとして全体への気配り

-長期化することによるスタッフの疲弊をさけるべく複雑なスタッフの帰宅スケジュールを作成

-現場の視点を大事にしつつ限られた資源の分配を本部と交渉

など複雑なタスクを効率よくこなされて組織の要として活躍されていた。

経験のみならずTMATには自前の災害に備えたコースをもっている。Basic course2日)とAdvanced course3日)があり、サバイバルの基礎やSTART法によるトリアージ、病院でのトリアージ、災害時の公衆衛生、衛生電話の使い方、インシデントコマンドシステム(ICS)、巡回診療時のノウハウや心得、過去の徳洲会の災害支援のシナリオに基づいてシミュレーションを行う。病院と病院との連絡を取り合い医療資源の分配や効率のよいLogisticsの検討、シナリオの中での各チームに別れたトレーニング実際の状況にあわせて各病院部門のチームでこのシナリオに参加する。

「帰国そして現地へ」 レポート2

成田空港には重苦しい雰囲気が流れていた。計画停電により電車は止まっており、売店にの食料は乾物などの限られたものだった。人々の症状は暗く、直接の被災の影響はそれほどでなくとも国全体に与えたダメージの大きさが推し量られた。

空港で早速TMATのリーダー橋爪先生を始めとするみなさまにお迎えいただき支援物資と共に仙台徳州会病院を一路救急車両にて目指した。高速道路は一般車両には閉鎖されており、各地から消防隊、自衛隊、支援物資を運ぶトラックが続々と被災地に向かっていた。被災地に近づくにつれ道路の状況は悪くなり地震の爪痕を感じさせた。

榛原総合病院のスタッフの方々徳洲会新聞の河合さんと同乗させていただき、災害のベテランから現地の状況・被災地での心得や原子力発電所の現況を教えていただきつつベース病院を目指した。

ベース病院である仙台徳州会病院に深夜1時に到着し、現地リーダーの田川医師から分かりやすく簡潔にご説明いただいた。経験豊富なリーダーとであうことができこのチームできっと何かができるという確信をえた。

仙台徳州会病院は電気はあるものの水道は遮断されていた。携帯電話は通じており家族と連絡をとることが可能であった。直食をいただいているときに病院の看護師とおはなしができた。病院のスタッフも被災者で4のタイプがあるということであった。

-家がなくなった

-ガソリンがなくなった

ー家族の安否確認の必要

ー衣食住すべて大丈夫

 

翌日早朝仙台徳州会病院を出発し活動拠点となる気仙沼市を目指して出発した。田川医師ら先遣隊は朝3時に出発して気仙沼市入りし活動拠点を現地自治体と交渉していた。我々のチームは補給物資を届けるべく本吉病院ヘ向かった。本吉病院はやや低地にあり、 海岸から M 離れているものの逆流する川からのみずで一階部分は水没したためCTや胸部X線、検査室、事務室等は壊滅的な被害をうけていた。ガスボンベは二階にあがっていた。TMATERとしての機能を提供し、本吉病院の正職員は入院患者のケアを担当し有機的な連係がとられていた。

補給物資をおいた後に田川医師から指示があり気仙沼市の南部の階上にて診療所を解説する方針がチームに伝えられ緊急車両4台にて一路は拠点となる橋上中学校ヘ向かった。  到着後直ぐに中学校の保健室に仮設クリニックを設営すると早速診療と巡回がはじまった。TMATの田川医師・野田医師そして野口管理栄養士(Logistics統括)がすばやく現状をチームに説明し、我々のミッション、被災地での援助隊の原則が伝えられた。

医療スタッフが避難所にはいったというニュースはすぐに周知され多くの患者診療がおこなれた。津波の影響による被害多い今回の地震では、地震による外傷はそれほど多くなく感冒、不眠、便秘、腹痛などの急性期の内科系主訴が多かった。中には津波に飲み込まれた後に流されてきたタイヤにつかまり漂流していたところ陸側の壁にたどり着きそこからたちあがり九死に一生を得たという女性もいた。

2011年3月23日 (水)

「2011年3月日本に未曽有の大地震が起こる」 レポート1

災害医療ボランティアにおいては自給自足できない状況で現地に行くべきでないという原則がある。祖国のために何かできることがあるか、しかし上記原則から安易に現地にいければ現場でご迷惑をかけると自問していた。そんなところ、鈴木ありさ先生から、徳洲会グループの災害支援チームTMAT(Tokushukai Medical Assistance team)に参加させていただけるというお誘いをいただいた。寝るところ、食事の保証を徳洲会グループからいただけるということで、抱負な災害支援チームの一員として被災者の方々・現場のチームのご迷惑にならい目処がだったため、参加させていただいた。その経験をここに報告する。

日本の危機の様子は世界にもすぐに知られ、私の所属するハーバード大学マサチューセッツ総合病院救急部の同僚スタッフも私の災害支援チーム参加意思表明をした際には直ぐにERのシフトを変わってくれた。上司は「Be safe! Godspeed! We are proud of you!」を肩を押してくれた。原子力発電所の損傷もあり不確実な状況の中、乳飲み子を含む二人の幼子を抱える私の妻も快く送り出してくれた。マサチューセッツ総合病院・ブリガムウィメンズ病院ハーバード大学救急レジデンシーのH先生、マサチューセッツ総合病院救急部の同僚ハリス医師とボストンカレッジ博士課程H先生もボストンより参加することとになり翌日にはボストンを経った。 帰日する前にボストンではMITやハーバード大学の留学生たちがAction for Japanを11日のうちに立ち上げ災害マップの作成公開だけでなく募金活動を始めていた。多くの友人から温かい励ましのことばをいただいた。 すでにUstream等で米国でも24時間NHKが視聴することができて、それによりこの大地震の被害が数千人規模ではなく数万人規模であることが報道されていた。

矢のように素早く反応したDMATの現地隊からの報告では「津波による被災がかなり甚大であり、残念ながらトリアージ上ブラックの人(すでに亡くなっている方か少ない医療資源ではどうしても救えない方)が多く、迅速な医学介入の必要なレッド・イエローは殆どいないということであった。」 複数の医療関係のMLで災害に関する大変有用な情報が公開されたいた。内科学会の「内科のための災害医療マニュアル」や西伊豆病院の仲田先生のご著書「手足腰診療スキルアップ」一部である災害医療マニュアル、MGHの外傷外科医Dr Brigsの「Advanced Disaster Medical Response Manual for Providers」などが非常に役立った。 災害のゴールデンアワーは72時間とされておりDMATの基本的活動も72時間である。私は72時間後になにができるのか自問自答しつつ現地にむかった。以前長野の地震の際の友人の経験「国際保健通信 http://square.umin.ac.jp/ihf/news/2006/0430.htm」を参考に
1. 被災者や被災地の医療スタッフにとって助けがくることによる精神的支え
2. 72時間が経つと被災が終わるわけではなくその後のニーズはある
3. 現地にて色々と情報収集をさせていただき共有することが将来につながる
上記の考えを元に現地に向かうこととした。

2011年3月20日 (日)

東京に戻りました

報道から予想されるとおり地震による被害はそれほどではなく、津波によるものがメインです。津波によって集落全体が被害をうけたところでは、急性期であっても助けられる命はあまりなかったようです。
亜急性期の対応や災害時の公衆衛生が大事になってきておりそれに対応していました。

2011年3月15日 (火)

仙台につきました

Tグループのお世話になり仙台につきました。
ありがたいです。
明日はERの応援か気仙沼です。
今日は地元の病院のEvacuationがあったそうです。200名。

災害時のブログ更新おゆるしください。
ただ情報共有したいのです。

2011年3月12日 (土)

日本に1週間帰ります

何が出来るかわかりませんがTグループのみなさまお世話になります。

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